帰り道、障害者と呼ばれたことを思い出した
兄がよく父と私のことを「障害者」と呼ぶ。
兄はたまに奇声を発し、私を殴って蹴り、暴れたと思ったらすぐに機嫌を取り戻す。
私が本当に障害者ならば、それは何よりいい事だと思う。良ければ障害者手帳をもって、障害者総合支援を受けて、そうやっていつか大人になった時あの兄から離れられると思ったら何よりの障害が無くなったのも同じだから。
もしも、本当に私が障害者だと言うのであれば証明して欲しい。その思いを伝えられずに生きていくのかと思うと、どれだけ自分が弱いかを明かされるみたいで辛かった。
またそうやって考えていくうちに、家に辿り着く。
才能が無かった子の話
才能がなかった子の話
私には飛び抜けた才能は無い、むしろ劣っている部類だと思う。
小さい頃、10歳ぐらいまでは自分はそうではなかったと思ってた。みんなが私は劣っているということを教えてくれなかったからだと思う。
そりゃあもちろん、それが優しさだと思う。我が子に、親戚に、赤の他人に、「貴方は何も才能がない」なんて言えないだろうし、多分わたしも言わない。
ただ想像して見てほしいのが、口の周りにご飯粒をつけたままそれに気づかないで友達に会いに行き、帰ってきてから鏡を見た時どうだろう。
恥でしかないのだ
家を出る前に、社会に出る前に、誰かが教えてくれていたらなにか変わったかもしれない
ああ、この子は才能がない。劣っている
ああ、この子はご飯粒が付いている。
"恥ずかしくないのかな?"
これが現実、優しさは時に人を苦しめる。
別に、我が子や赤の他人に「ご飯粒付いてるけど、恥ずかしくないの?」って言って欲しいわけじゃなかった。ただ優しく、「鏡見てきなー」って言ってほしい。
それが遠回しにバカにしていると考えてしまう人もいるのは分かってる、けど教えがどれだけ大切か痛感するよね
学校ではこんなこと教えてくれないけどね。
ログイン
ログイン中、…ロード中…、
ゲームをやっている合間、画面に表示されたその文字を見て一瞬不安になってしまうことが多々ある。
私は飽き性だから、データが保存されているのを確認したあとすぐに他のアプリやウェブに行く。最近気になっているゲームは無い。スマホのホーム画面もいつも通り変わり映えの無いアプリ達、どころか容量が無くなるからと言って消した写真やデータやアプリをいっぱい見送ってきた。
学校から帰ってきてもスマホ、起きてもスマホ、勉強中でもスマホ、学校にいる時でさえ、スマホのことを考えている。
これでもかってほどやってきたTwitterやYouTube、そういえばTwitterはXになったんだっけ。
私が変わろうとしなくても、変わろうとしているものたちはいくつもあるはずだ。
でも、アップデートは苦手。いつも通りやろうとしてきたことが、不意に変わってパニックになる。あれが新しくなったからこうしないといけない。この前まであった動作ができない。あれが無い、でも新しくできたこれはいらない。
そんな感じで壊れていく
私は望んでいないのに
非日常みたいな気分で乱される
いつも通りだったはずのアレが
ログイン中…という文字を見てホームへ行く前にそっとスマホの画面を暗くした。
セーブはしてない。